English

資料館 Archives - 05

ステテコの歴史

いつからズボン下は「ステテコ」と呼ばれるようになったの?
そもそも「ステテコ」ってどういう意味?
モモヒキ、パッチとは違うの? 今「ステテコ」は何処へ?
ステテコの誕生と衰退・進化の歴史をたどり、その謎に迫ります。

室町時代 1336年〜1573年

「ステテコはモモヒキの変形である」

という説から、モモヒキが現れたとされる室町時代を、ステテコ史の出発点とする。モモヒキは、脚にぴったりと沿わせ、反対に腰にはゆとりをもたせ、左右別々に筒状に仕立てたものを紐でつないだものである。

モモヒキの語源は一般に、モモハバキ(注1)から転じたと言われているが、すねに巻き付ける布状のものが、ズボン式であるモモヒキに成長したものと考えるのは少し飛躍を感じる。 また、モモヒキと山袴(やまばかま)の間には、作りや着用法に多くの共通点が見られることなどから、袴(はかま)とモモヒキは互いに影響を受けてきた確率が高いという説もある。

注1:労働、旅行、防寒などの際、脛(すね)に巻き付けてひもで結び、動きやすくしたものをハバキ(脛巾)といい、股(もも)まで被うハバキを「モモハバキ(股脛巾)」といった。藁(わら)や布で作られ、室町時代からは脚絆(きゃはん)と呼ばれた。

注2:日本古来の衣服である袴の中で、最も古い形を今に残すのが山袴である。

モモヒキ(股引)

モモヒキ(股引)

慕帰絵

袴の下に股引を着用している姿室町時代の絵巻物「慕帰絵」より

江戸時代 1600(または1603)年〜1867年

江戸時代になるとモモヒキは、一般に普及した。作業着としての機能性の高さから職人はもちろんのこと、庶民の旅行用などにも用いられた。

モモヒキの一種と考えられているパッチは、朝鮮語のパチから名付けられたといわれるが、京阪と江戸ではその呼び方に違いがある。京阪では素材を問わず足首まである丈の長いものをパッチ(注3)、旅行に用いる膝下ぐらいのものをモモヒキといい、江戸ではチリメン絹でできたものをパッチ、木綿ものは長さにかかわらずモモヒキと呼んだ。短いモモヒキは半モモヒキ(=半タコ)(注4)、または猿股引(さるももひき)(注5)と呼んで区別する事もある。

パッチは一般にゆるやかに仕立てられ、モモヒキは細めに作られた。江戸では文政末頃から、より細くて足にぴったりしたものが好まれ、粋(いき)とされた。中でも材木商の使用人が、足さばきを良くする為に使い始めた、川並(かわなみ)(注6)は、はくときも脱ぐときも足の出し入れが困難なほど極めて細く、座る事もままならかったというから驚きであるが、一般労働者の間で大流行した。

注3:西日本ではパッチの語しか使わない所も多い。この言い回しが現代に残っていて、関西人は長ズボン下をパッチと呼んでいるようだ。

注4:一般に白い木綿素材で、夏や家で過ごす際、着物の下に着用した。現代では主に和装や祭りの際に着用される。

注5:由来は、猿回しの猿にはかせたモモヒキに似ていたから。また、のちのサルマタは猿股の誤読といわれる。

注6:この川並は、座って仕事をする商人、歩行を主とする行商には不向きである。

室町時代

(江戸時代の職人の股引姿)北斎『富獄百景』三編 足代の不二 天保6序

室町時代

半モモヒキ(半股引)

明治時代 1868年〜1912年

明治時代でも、一般労働者はモモヒキを愛用した。 職人階級は、木綿の腹掛けにモモヒキと印半纏(しるしばんてん)、商人や使用人などは着物を尻はしょりしてモモヒキをはくのが定番の格好だった。やがて、西洋文化が取り入れられ、洋装の着用がみられるようになると、パッチは次第に姿を消していき、作業着としてモモヒキだけが残された。

明治13年頃にはさらに和洋両装が一般化。下着も洋装に移る過度期となり、モモヒキの着用法にも変化が現われる。西洋のショーツが日本のモモヒキと結びつき、猿股(さるまた)(注7)となって下着に。また、ズボンの普及に伴いズボン下となって、それぞれの道を歩んでいく。モモヒキから進化した、このズボン下こそがステテコの源流といえるが、果たしていつからステテコと呼ばれるに至ったのか? 一説によれば、上方落語会・"珍芸四天王"の一人である三遊亭円遊(さんゆうていえんゆう)がステテコの産みの親だといわれている。 彼の持ちネタで、着物の裾を尻からげにして、白い半モモヒキをあらわにした踊り(注8)が、当時空前の大ヒット。これをステテコ踊りといい、半モモヒキのことをステテコと呼ぶようになった由縁といわれる。

それから数年後、都会では冬場に白や肌色のメリヤス製のズボン下が用いられるようになり、夏にはクレープ肌着のステテコとシャツが高級品として市場に表れ始めた。

注7:猿股は、短いモモヒキ式の下ばきのこと。別名「西洋パンツ」といわれた。

注8:従来の江戸落語をくつがえした、業界初の立ち踊り。手ぬぐいで鉢巻きをして高座で立ち上がり、着物の裾を端折って半股引(はんももひき)を見せ、『向こう横町のお稲荷さんへ、一銭あげて...』という下座の唄に合わせて、『♪ステテコテコテコ』とはやしながら珍妙な顔つきで踊る。途中、並外れて大きな自分の鼻をちぎって投げる身振りで爆笑を誘った。

尻はしょりに股引姿

ごぜん上等すててこおどり守川周重画。明治13年(1880)刊

昭和 1926年〜1989年

昭和30年代になると、高級品だったクレープ生地の量産が可能になり、クレープ肌着の需要(注9)は最高潮に達した。「吸湿性の良さ」や「爽やかな着心地」を兼ね備え、蒸し暑い日本の夏に適したその肌着はあっという間に一般に普及し、特にステテコは、ゆったりとしていて肌にぴったり付かないので着心地が良く、大変涼しいということなどから、夏のお父さん達の定番スタイルとして大流行した(注10)。

しかし、ブームには必ず終わりがやってくるもので、ステテコもまたその例外ではなかった。1970年代、ジーンズのファッション化が進み、ニュートラッド(=アイビールック)が全国的に流行。最先端のファッションに身を包んだ若い世代に、『ステテコ=格好わるい』という意識が芽生えた。Tシャツやジーンズの普及など、生活様式の変換につれてズボン下をはく人も減り、時代とともにステテコは衰退の道をたどる。

注9:全国で年間1億メートルものクレープ生地が生産されたという。

注10:「ランニングにステテコ、ラクダの腹巻き」が定番スタイル。仕事から家に帰るとズボンを脱ぎ、下にはいていたステテコ姿でそのままゴロゴロ。夕暮れ時にはうちわ片手に緑側に座り、隣近所をうろつき、河原に夕涼みに出掛けるのも皆一様にステテコ姿だった。

クレープ肌着 © as corporation

ステテコ姿のお父さん

平成 1989年〜(まとめ)

そして平成の今、"ステテコは格好悪くて時代遅れのもの"という風潮が広がり、「ステテコ」という言葉自体を知らない人も増加傾向にある。エアコンが普及した現代において、もはやステテコは消えて無くなる運命にあるのだろうか?

それは違う。一部では、「フレンチカルソン」や「ロングトランクス」といった洋風な名前に変わることで生き残る動きもでている。また、昔ながらの楊柳のほか、カジュアルなカットソー素材のものや、カラフルな色柄のものも市場に出だしてはいる。

ステテコが、古くモモヒキから始まり、日本人の日常に必要とされた訳は、我が国の風土と生活環境に密着したものだったからである。 日本人のライフスタイルが長い年月をかけて変遷を続けてきたように、ステテコもまた、新しいカタチを求められているのかもしれない。

<主な参考文献>文化出版局『服飾辞典』,文化出版局, 1982
青木 英夫『下着の文化史 』,雄山閣出版 ,2000
宮本 馨太郎『かぶりもの・きもの・はきもの』,岩崎美術社1968
金沢康隆『江戸服飾史』青蛙房,1998
高橋晴子『近代日本の身装文化-「身体と装い」の文化変容』 ,三元社,2006
昭和女子大学被服学研究室『近代日本服装史』,近代文化研究所,1971
山本進『図説 落語の歴史』.
河出書房新社,2006

ページトップへ